悪の読書術

何が「悪」なのか、気になって読んでしまった。

P18
このシリーズで云う「悪」とは、自らの無垢さ、善良さを前提とする甘えを抜け出し、より意識的、戦略的にふるまうためのモラルに他なりません。
読書においても「悪」は重要な要素です。
自分と書物の間に緊張を作り出すこと。同時に他者の視線を導入することが大事です。

P228
どんな本を読むのか、どんな本を自らの愛読書として人に示すのかということは、自分がどんな人間になりたいのか、どんな人間だと、人から見られたいのかという問いに直結しています。
本を読む、本を選ぶというのは、自らの内面の表明であると同時に、どのように自分自身を、その精神面を作っていくのか、という選択と戦略にも関わってくるのです。

P231
自分にとってかけがえのない本を見つけるにはどうすればよいのか。これはなかなか難しいのですが、多少とも効率と思われる道がないでもありません。
イノセントに読書を楽しむ、自分はこの本が好きだから読む、ではなく、自分を自分として作り、向上させるために何を読むべきか、ということを、客観的に考えるべきでしょう。

序章と結語を読むと、著者の主張が十分わかる。
個人的には、好きな本を好きなように読みたい。

序章 社交的な読書とは何か
第1章 社交的に高級な作家
第2章 女性作家の読み方
第3章 男性作家の読み方
第4章 価値とよそおい
第5章 カルチャーの周辺
結語 自分を作る読書を

以下に、気になった文章をメモ

P23
本は面白ければいいのだ、タメになればいいのだ、とおっしゃるかもしれませんが、それは甘えです。ロークラスの本を面白いと思うことを、恥ずかしいと感じる感性こそが、スタイルのある成熟した大人への第一歩なのです。

P62
何でもないこと、どうでもよいことがもっている、眩暈がするような深淵を江國香織の文章は見せてくれます。

P67
さて、宮部さんと高村さんです。この二人の作家を、ひとからげにして扱うこと自体が、文学的にはマズイのですが、社交的には正しいのです。
なぜ正しいか、ということを説明すれば、この原稿はほぼその任を果たしたことになりますが、何よりもまず厚いですね、二人とも。

P75
常に変わらず、数人の新入生たちが、好きな作家として名を挙げるのが山田詠美さんなのですね。そして好きな作品は、ダントツで、『ぼくは勉強ができない』なのです。

P87
「村上春樹が好き」であることは、記号にはならない。
というのも、日本において、多少とも本を読む人間は、誰もが村上春樹の作品を読んでいるし、同時にまた、村上作品を愛している。好んでいる。だとすると、村上春樹が好き、ということには、情報として、あまり意味がないのです。

P108
時代小説好きの人には、「人生の手練れ」という雰囲気、もしくはそういう雰囲気の装いをするのを好む人、というイメージがあります。

P112
男のナルシズムの発露の仕方が、いかに幼いかということ。
本の場合にも、ほぼ同じような現象が見受けられます、自分がカッコいいと思っている著者の本、もしくは登場人物が出てくる小説を好む、好きなら好きで、一人で勝手に読んでいればいいのですが、その本を読んでいる自分をアピールしようとする。それどころか…

P126
日本の近代文学でも、芥川龍之介や太宰治などは、非常に容貌で得をしていますね。
三島(由紀夫)が面白いのは作品の変質と並行して、その身体も変えていったことです。

P134
どんな人間もイデオロギーから自由になれはしない、その外側に出ることはできないのです。

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